面白き哉、我が人生の廻り舞台

●私のプロフィル●
ペンネーム パール・やまぐち
 遠赤放射健康シート卸 山口商事 代表
 パール・やまぐち占術研究室 開運アドバイザー
 広島比治山陸軍墓地奉賛会理事

著作
「比治山陸軍墓地略誌」
   B5判 260頁 平成10年 墓地奉賛会発行           
「別冊・広島比治山陸軍墓地ガイド」
    A4判 110頁 平成12年 自費出版
「比治山陸軍墓地副読本」
            B5判 160頁 自費出版

昭和17年7月16日 京都市右京区生れの広島育ち
身長167センチ  体重60キロ

座右の銘   艱難汝を玉にす 冬来たりなば春遠からじ   

       頂に登りて見れば山並みの 
       峰の奥にも峰は続けり   

好きな言葉  白雲紅葉の下 清冽たり一渓流
       他日公海に注ぎ 洋々として八州を巡らん      

       キリストも釈迦も孔子もみな来たれ 
       君らが知らぬ速記教えむ     源 綱紀

       神わざの たわむれごとか 早かきの 
       もろ声うつす力うれしき

四季の心  人に合う時は春のように暖かい心で
      仕事をする時は夏のように情熱的な心で             物事を考える時は秋のように澄んだ心で 
      自分を戒める時は冬のように厳しい心で       
つもり違い十ヶ条    
      高いつもりで低いのが教養  
        低いつもりで高いのが気位
      深いつもりで浅いのが知識  
        浅いつもりで深いのが欲望
      厚いつもりで薄いのが人情  
        薄いつもりで厚いのが面皮
      強いつもりで弱いのが根性  
        弱いつもりで強いのが自我
       多いつもりで少いのが分別  
        少いつもりで多いのが無駄

尊敬する人物 日蓮、空海、坂本龍馬、勝海舟。
支持政党   自由民主党。
応援する球団 広島東洋カープ。
酒量     日本酒なら二合程度、ビールは大瓶一本
たばこ    一日にセブンスターが一箱。
好きな飲み物 コーヒー(ブラックで日に七杯)、牛乳、
       トマトジュース、ミルクセーキ。
好きな食べ物 ビーフシチュー、刺身、フライドチキン、
       ドーナツ、チョコレート、お好み焼き。
好きな果物  ぶどう、桃、梨、柿、びわ、苺、いちじく、
       スイカ、八朔、石榴。
愛唱歌    早春賦、我は海の子、赤とんぼ、背比べ、
       月の砂漠、鞠と殿様、浜千鳥、朝はどこか
       ら、お山の杉の子 他。
歌謡曲    なごり雪、木綿のハンカチーフ、君の海へ、
       地上の星、明治一代女、むらさき小唄、大
       利根月夜、鴛鴦道中、旅姿三人男、時代遅
       れ、少年時代、妹よ。洒落男、夜の柳が瀬、
       伊勢崎町ブルース、月がとっても青いから、
       若いお廻りさん、湯の町エレジー、きらめ
       く星座、ああ上野駅、石狩挽歌、知床旅情、
       くちなしの花、石狩挽歌、北帰行、流転。
好きな軍歌  上海だより、海軍小唄、陸軍小唄、同期の
       桜、ラバウル小唄、愛国行進曲 他。
好きな民謡  安来節、大漁唄い込み(斉太郎節)、八木
       節、河内音頭。
好きな浪曲  唄入り観音経 天保水滸伝、他多数。
音楽     フォルクローレ(花祭り、コンドルは飛ん
       でいく 他)。
       タンゴ(碧空、ラ・クンパルシータ、奥様
       お手をどうぞ、小さな喫茶店 他)。
       映画音楽(ジャニギター、第三の男 他)
映画     アラビアのロレンス、十戎、釈迦、天地創創
       造、大脱走、地獄の黙示録、北京の55日、透
       明人間、タイムマシン、汚れなき悪戯、フラ
       ンダースの犬、母を尋ねて三千里。
       チャップリンの映画、嵐寛十郎の鞍馬天狗シ
       リーズ、その他、剣客商売などの時代活劇。
好みの女性  住友真代(NHKキャスター)、織作峰子(写
       真家)、大路恵美、木村佳乃(ともに女優)
読書傾向   江戸後期から明治中期にかけての歴史小説、
       時代活劇小説(鞍馬天狗、剣客商売 他)。
       香港の武侠小説(金庸の作品)、中国の歴史
       小説。SF小説。
  *市内の各図書館にて毎月20冊余り借りて読む本の虫*   
テレビ番組  プロジェクトX 挑戦者たち、そのとき歴史
       が動いた、ヨーロッパ紀行、美術・名曲番組、
       時代劇、浪曲や講談、剣舞。落語の演芸、ク
       ローズアップ現代、ニュース解説など。
購読紙・雑誌 中国新聞、産経新聞、SAPIO、正論。
尊敬する仕事 同時通訳、速記士。
   *来世では、同時通訳士か速記士になりたいと思う*
趣味     折り紙、ペーパークラフト、将棋。
特技・研究  早稲田式速記(書く練習を疎かにしていたの
       で、速記ならぬ遅記と言った方がよいか。速
       記には不思議な魅力があり、自分独自の筆法
       と速記文字の省略法により、いろいろと役立
       っている)。
      ☆運命占術(運命占術の研究は30年を経過)
       秘伝「折り紙によるダビデの星祈願法」と、
       前世探査による開運指導。企業の盛衰リズム
       ・人事の鑑定、毎年の運勢暦の作成、名づけ。
      ☆ソンディ・テストによる遺伝子運命分析、社
       会性・反社会性(犯罪深層心理)診断、各種
       性格テスト実施。

付記
著作の3冊とも、宮内庁、政府関係当局、大使館、国会図書館、
各新聞社、大学、時事評論家等に寄贈・納本。貴重な資料とし
て新聞などで紹介され、 また、 NHKテレビで数回にわたり
比治山陸軍墓地のことが放映され話題となる。 略誌の一部は、
遠くフランスやアメリカ にも持ち帰えらた。現在、4作目の
「比治山陸軍墓地130年の軌跡」を制作中。   非売品


半生記  面白き哉、我が人生廻り舞台
●天命により生かされていることを実感する日々●

これから皆さんに、私の半生に起きた不思議な体験を
ご披露します。それは、目に見えない存在(神仏とで
言いましょうか)の導きと、ある貴人との出会いによ
り、ある日を境に私の人生が大きく変わったことや、
重度の糖尿病で半年も持たないと言われ、座して死を
待つ覚悟でいた時に貴人の出現で陸軍墓地に関わり、
元気を取り戻すことができた経緯や、また、それによ
り自分の与えられた使命に目覚めたことなどを織り交
ぜながらお話します。現在、何らかの問題を抱えてい
たり、よりよい生き方を模索しておられる方に、私の
手記が少しでも参考になればこれに優る喜びはありま
せん。長文で、しかも、冗長なところも多々あるかと
は存知ますが、しばらくお付き合いください。

あの日、一発の原爆で廃墟と化したヒロシマ。被服廠
の頑丈な建物の中にいて直接の被爆は免れたものの、
数時間後に黒い雨が降り注ぐ中、母親と行く当てもな
く市内を徘徊。生き残った行き交う老若男女の姿は、 
衣服はあちこちが焼け焦げ、煤けて目は虚ろ。しかも
顔のみにとどまらず、露出しているところは皮膚が垂
れ下がり、水を求めて彷徨。地面や瓦礫の至るところ
には、黒く焼け焦げ苦悶の表情の焼死体があちこちに
転がっている、まさに地獄の様相! あまりの恐怖に
思わず母の後ろに隠れて震えていた光景が、60年近く
も経過した今でも、瞼の裏に焼きついています。

当時、私は3歳。前年の3月に父は帝国海軍軍人とし
て3度目の召集の折、輸送船で東南方面に向かう途中、
敵機に撃沈され海の藻屑と消えたのでした。そのため、
母は京都から広島の縁類を頼って原爆投下前5月に広
島に。母は間もなく被服廠の事務員に採用され、早朝
から防頭巾を被り、幼い私を連れて被服廠に通ってい
たのです。ところが、忘れもしない8月6日の朝、赤
レンガの被服廠の建物の近くで一人遊んでいた時、突
然の空襲警報! たまたま近くにいた女の人が私を抱
えて被服廠の建物の中に非難したので直接の被爆は免
れて助かったのでした。
もしその女の人がいなかったら命はなかったことでし
ょう。しかし、 それからが大変な生活状況で、広島
にわざわざ原爆に遭い来たようなもので、暫くは食べ
る物を捜し歩いたり、雨が降れば橋の下や軒先で雨宿
りしたりで乞食と何ら変わることはなく、母の苦労は
一言では言い表せないほど。終戦直後のため住む家も
なく、どん底の生活が長く続いたのです。

ある日、粗末な家の軒下で雨宿りをしていた時、戸が
開いて中からやせ衰えた老婆が顔を覗かせ、私たち親
子を見て黙って奥に引っ込んだのです。数分後、老婆
が出てきて、これを食べるようにと、欠けた丼茶碗を
差し出しました。中を見れば雑炊のようなものが入っ
ています。母は涙ながらに老婆に礼をいい、二言三言
何かを話していましたが、丼を私に渡し、食べるよう
に言ったのです。ひもじい思いをしていた私は、一も
二もなくむしゃぶりつくように口にいれましたが、後
で母が言うには「今のお婆さんは朝鮮の人なのよ。ご
自分も食べる物に不自由されておられるようなのに、
ご自分のを差し出して下さったの。少しはおなかの足
しになった?」と聞きます。幼いながらも何となく理
解でき、お婆さんの親切に涙が出ました。しかも、母
は何も食べていないので空腹の筈なのに、自分は食べ
ずに私に全部与えてくれ、何か胸が熱くなったのを記
憶しております。暫くの間、お婆さんは入り口に立っ
て私たち母子を優しい眼差しで見ていました。私も何
度か振り返って手を振りましたが、この時は神様に出
会った思いでした。

それから、あちこち幾日も市内を放浪しておりました
が、人の情けでようやく宇品にある暁部隊の、今では
使われていない古びた廃屋同然の兵舎の一部屋に落ち
着くことができるようになったのでした。ところが、 
そこはネズミ、南京虫や虱、蚤、ダニ、ゴキブリ、蜘
蛛などのオンパレード! 害虫の巣窟と言って言いよ
うな、とても人間が住むようなところではないのです。
食事をしていると天井から南京虫がご飯や汁茶碗の上
に落ちてくるわ、汁の具を食べると変な味がするので、
吐き出してみるとゴキブリだったり、それに加え、ハ
エや蚊は煩く飛び回るわで食事するのも大変でした。
夜は夜で裸電球を消して床に就こうとすると、待って
ましたとばかりに、ダニや虱、蚤が出てきて眠るどこ
ろではありまん。仕方なく眠い目をこすりながら、母
子共ども膚を掻き毟しり蚤や南京虫を潰しにかかるの
ですが、後から後から柱の隙間から南京虫がゾロゾロ
這い出てくるのです。天井からも南京虫がポトポト落
ちて血を吸うわで、オチオチ寝ることもできず、毎夜
これら害虫を潰したり駆除に時間を費やし、睡眠不足
の日々が続いて日中は朦朧とした毎日が続きました。
しかも、いろいろな害虫の巣窟ですから悪臭も半端じ
ゃぁありません。その上、天井や戸棚、押入れなど至
るところに蜘蛛の巣があるのですから気持ちが悪いこ
とといったら話になりません。
こうした廃屋同然の中で、10年余りも暮らしたのです
が、体はいつも血を吸われて掻き毟った跡がいたると
ころにあり、しかも身に着けているものは人から貰っ
た古着、髪はボサボサで、履いているのはチビた下駄
といった状態ですから見られたものではありません。
勿論、近所の女の子たちは相手にしてくれず、近寄る
とクモの子を散らしたようにワァーッと逃げていく始
末。
でも遊び仲間には不自由しませんでした。どの子も私
と似たり寄ったりですから、皆と一緒に様々な遊びを
覚え、日が落ちるまで興じたものです。考えてみれば
今の子供たちは可哀相ですね。近くの小川でメダカ取
りをしたり、木片を削って舟を浮かべたり、遠くまで
トンボを追いかけたり・・・。また、鬼ごっこや竹馬、
パッチン、パチンコ、けん玉、竹とんぼ、陣取り、あ
や取り、おじゃみなど、実に様々な遊びがありました。 
いいところの家の子は、私たち浮浪児のような身なり
の子たちと遊ぶことはなく、家で友達と遊んだり勉強
をしていましたが、だからと言って腕白たちがその子
たちを苛めたりすることはありません。近所の子供た
ちは家が皆貧乏でしたから当然、似たり寄ったりで、
時たま顔が見えない子がいると、皆でその子の家へ迎
えに行きますが、大抵、具合が悪く臥せっていました。
こうしていろな遊びに興じたものですが、それらの遊
びを集めると一冊の本になるぐらいです。そうしてみ
れば、今の子供たちはそういった遊びは知らず、また、
知ってはいても見向きもしません。テレビやゲーム機
の普及が子供たちから家外の遊びを取り上げてしまっ
た結果ではあるのですが、それと引き換えに、何か大
事なものが失われたように思います。

ところで、廃屋同然の生活を経験したことが幸いして
か、60才を過ぎた此の年になっても、悪いものを食べ
り少々汚い水を飲んでも、それが元で腹痛になったと
いう経験がほとんどないのです。よく、心配事やスト
レスで胃が痛むと言うのを聞きますが、私自身、過去
に胃の痛みというものを経験していないので、それが
どんな痛みなのかも分かりません。不思議に思われる
かも知れませんが、考えてみれば、廃屋での長い生活
の中で、毒や黴菌に対する免疫ができたものと思われ
ます。ですから、今でも時々、少し古くなってところ
どころカビが生えた物でも口にしますし、況や、賞味
期限を過ぎていたものを口にしても腹痛を起こすこと
はないのです。
また、4年前のことですが、妻がデパートの外商部か
らアイスキャンデーを100本買わされたことがありま
した。 そのため冷凍庫は一杯になりましたが、妻や
子供たちはほとんど食べることはなく、仕方がないの
で時々一本づつ出しては自分一人が食べたのですが、
全部食べるのに1年半もかかりました。月日が経つに
つれ段々と原形をとどめなくなり、しかも冷凍庫とは
言え、カビも生えてきます。包装セロハンはこびりつ
き、それを剥しながら食べていきましたが、私だから
こそ食べることができたのですが、他の人だったら覿
面に腹痛を起こし救急車で運ばれていることでしょう。 
それと、3年前程前のことになりますが、正月用の生
かきを知人から貰い、そのうちの二袋は酢牡蠣やすき
焼き、かき飯などにして食しましたが、後一袋残って
いることを忘れていました。ある日、冷凍庫の中の物
を片付けるために取り出してみたところ、何とすっか
り忘れていた生かきが一袋出てきたのです。見れば崩
れて原形をとどめてなく、半分は茶褐色の汁状になっ
ています。勿体ないので少しでも食べられることがで
きるならと水洗いしたところ、身の半分ぐらいは食べ
られそうなので、腐って汁状になっているところは取
り除いて、ポン酢と砂糖で煮て食べましたが、腹痛を
起こすことはありませんでした。私と違って、妻も子
供たちも賞味期限には神経質なほど注意しており、1
日でも期日を過ぎていたら絶対に口にはしませんので、
対照的な家族ではあります。

大分横道に逸れてしまいましたが、昭和34年に立ち退
きで新築の市営住宅に移ることができ、やっとどうに
か人並みの暮らしが出来るようになったのです。私は
貧困の中で育ちましたので高校に上がることもできず
義務教育のみ。しかも、しょっちゅう仮病で学校をさ
ぼり、エノケンの映画や嵐寛十郎の「鞍馬天狗」、三
益愛子主演の「瞼の母」などをキセルで観に行ってい
ました。また、町内には芝居小屋もあって、地方巡業
のチャンバラ劇の公演があると、学校そっちのけで観
にも行ったりもして遊び呆けていた少年時代でした。
しかし、本は大好きで、大人が読む読切小説などをこ
っそりと蒲団の中で読み耽っていたものです。また、 
原爆で黒い雨の放射能を浴びているせいかムリができ
ず、体育や運動の時間は教室に一人残っているような
私でした。
さて私の卒業してから以降は長い間にわたり、紆余曲い
折そのものでした。何をするにも根気や持続力が大事
なのですが、私にはそれが乏しく、それが元でスター
ト時点から躓いてしまったのです。砥石の製造工場に
就職しましたが、砥石の原材料の調合や持ち運びなど
で両手指の指紋が薄くなり血が滲むようになり、とて
もこんな職場などに居られるものかと飛び出し、今度
は印刷会社に就職。ここでは細かい手作業も多く、再
々注意されてもポカばかりやってしまい、自分の物覚
えの悪さを呪ったものです。ある日のこと。国鉄のダ
イヤ改正のために大きなダイヤ表の版下が持ち込まれ、
膨大な線と細かな分・秒刻みの数字で埋められており
ます。指定されたところをチョークのようなもので消
していくのですが、線と線の感覚が狭く、誤って消し
てはいけない線を数箇所消してしまう大失敗をしでか
したたのでした。こんなこともありました。紙を重ね
て裁断する部員が、足元のペダルを踏み間違えて、大
怪我をしたのです。絶叫とともに指が何本か切断され
辺り一面が血の海となりました。すぐ救急車が呼ばれ
搬送されていきましたが、この時ばかりは私自身、暫
くの間ふるえがとまりませんでした。結局、印刷会社
でも定着できず、それ以後も転職の繰り返しでいろい
ろな職場を渡り歩くことになったのです。
集中力が欠如して物覚えが悪やいのと、要領の悪さ。
その上、飽きっぽい性格が災いして、一つ屋根の下で
の単調な作業は精神的苦痛のなにものでもありません。
そいったことが転職を繰り返すことになったのです。
そう言えば北島三郎が歌手になるまでの20数回の転職
は有名な話。私もそれに負けず劣らずですが、いろい
ろな職業を経験したことが、後年、仕事にもプラスに
もなったのですから、一概に転職は良くないとは思い
ません。
人それぞれの人生があり、最初のスタートからやりた
い仕事に就くことができる者もいれば、性に合えば2,
3度の転職のみで定着できる者など人それぞれです。
また、コレといってやりたい仕事がある訳でもなく、 
いろいろな仕事を経て、ようやっと自分に向いた仕事
に辿りつくケースもあるのですから・・・。

話を戻して、その後、建材会社にトラックの助手とし
て就職し、2年後、免許を取得。それからは2屯ダン
プの運転手としてセメントや建築資材の運搬に明け暮
れる毎日。この建材会社には8年余り勤めましたが将
棋と酒の味を覚え、酒の方は、仲間と3人で毎夕の如
くクラブやお触りバー、スタンド、キャバレーなどを
はしご。一杯入れば下手な横好きで、特に、生バンド
で唄えるクラブや大衆酒場にはよく行きました。うま
くもないのにマイクを握っては、バンドの演奏をバッ
クに「むらさき小唄」や「明治一代女」「旅姿3人男
」「大利根月夜」などを唄っていました。
また、こんなこともありました。広島の建材組合が離
島の絵の島で懇親会を主催。 各建材店などが家族とも
ども参加して400名余り集まりましたが、その折、のど
自慢大会があり、私も早速予約してステージに上がっ
て唄いました。不思議とアがるということはなかった
ですね。もともと赤面恐怖症で人前に出るのは苦手な
のですが、マイクを握って唄うときだけはいい気分で
唄うことができるのです。尤も、5,6人のバンドを
バックに唄うのですから、少々調子が外れても気分の
悪い筈がありません。 
こうして、毎夜の如く一晩に何軒も飲み歩くので、各
店のツケもバカにならず、また、好みのホステスがあ
ちこちに何人もいましたので、給料を貰っても半分以
上は遊興費に消え、深夜の帰宅や朝帰りに、いつも寝
ずに私の帰りを待っている母親を悩ませ困らせたこと
が悔やまれ、今でも亡き母に心の中で詫びています。
ところで、飲み歩く流川や薬研堀界隈では、当然あち
こちで顔馴染みになり、噂が広がっていつしか「旭東
の三羽烏」として少しは有名になりましたが、そこで
またいい気になって飲み歩くといった日々でした。

恋もしました。相手は同じ会社の事務員で、女子商の
新卒者ですが、穢れを知らぬ初々しさが感じられ、ど
こか儚く、花に譬えれば、「野菊のごとき君なりき」
とでも言いましょうか。何年も其の女性を恋しく思っ
ておりましたが、結局のところ相手にされず、片思い
の痛手を癒すために勤めを休んで、どん行列車に乗り
宮崎の日南海岸へ行った、ほろ苦い想い出があります。
今では過ぎ去りし遠い昔のことになりました。結局、
癒すことができず、その後も悶々として勤めておりま
したが・・・。

ところで、勤めていた8年余りの間に、幾度か危ない
目にも遭い、その都度、命拾いをしたことについてお
話しましょう。一つは50キロのセメントを肩に担いで
ブロック工場の置き場に持ち込んでいるときのことで
す。突然、上から何か黒い大きな塊のようなものが目
の前に落ちてきて、ズブッと地面に刺さったのです。
なんだろうと思ってよく見ると、何とその物体は工業
用アイロンではありませんか。ゾッとして鳥肌が立ち、
暫くは固まってしまい動くことができません。子供た
ちの声で我に返り、すぐ上を見上げると、廊下の手摺
にアイロンを滑らせて遊んでいて、誤って落ちたこと
が分かったのです。どの子も私を凝視したままで、誰
がアイロンを握っていたのか分かりません。普通なら
「おじちゃんゴメン!」の一言ぐらい言いそうなもの
ですが、問い詰めることもできず仕事を再開しました
が、もう数センチほど前に出ていたらとても助からな
かったでしょう。この時ばかりは生きた心地がしませ
んでした。
また、建築資材を運搬中に居眠り運転や脇見運転で大
事故を引き起こしかねない事態にも直面したことが幾
度もありました。しかし、そのいずれもが天佑が働い
たとしか言いようがない間一髪のところで回避できた
のです。
こんなこともありました。少年の頃、築港で遊んでい
た時のことです。友達3人と積み上げられた丸太の上
で遊んでいた時のこと。突然、丸太の山がゴロゴロと
崩れたのです。バランスを失い倒れたその上から丸太
が転がり落ちる丁度その時、不思議なことに手に持っ
て遊んでいた佃煮の木箱が、下の丸太と私の首との間
に支えとなった格好で立ったのです。そのお陰で上に
ある丸太が転がり落ちるのを防ぐことができ、私の後
頭部と首のところで止まったのですが、未知の力が働
いたとしか考えられない出来事です。悲鳴を耳にした
大人たちが駆けつけ、咄嗟に持っていた太いチェーン
を丸太の両側に巻きつけ、7,8人で動かしてようや
く取り除いてもらうことができました。すぐに救急車
が呼ばれ母が付き添って病院へ搬送され、即入院とな
りました。怪我の程度は、後頭部よりも胸の方の出血
の方がひどく、胸一面から血が流れ出てシーツが見る
見る赤く染まっていく、その時の光景が今でも忘れら
れませんが、十日程で退院できました。

さて、この建材会社では、運転手の定着率が悪く、し
かも後から入ってきた人間の方が少しですが給料がよ
いのです。私たちは3人とも勤続年数が長いので、ミ
ーティングの度に待遇改善を申し入れていたのですが、
いつも要求を撥ねられていました。ある日のこと。と
うとう頭に来た私たち3人(3羽鴉)は意を決して、
会社に退職届を出して辞めることにしたのです。慌て
たのは会社側。まさか3人同時に辞めるとは思ってい
なかったようで、早速、復帰するように少し条件をよ
くして説得に乗り出したのです。それも3人の結束を
引き離そうとするように一人づつ切り崩しにかかりま
した。幹部が2回ほど入れ替わりに私の家にやってき
て、復帰してくれるように懇願しましたが、「男たる
もの、一旦、退職届を出した以上、2度と復帰する気
持ちはない」と、大見得を切って追い返しました。結
局、一人だけ元の鞘に納まったようです。

それからしばらくの間、職探しに奔走し、事務機販売
の会社にドライバーとして就職。当時、機械式の計算
機から卓上電算機や小型電卓に切り替わる頃で、私の
仕事はセドリックに3人のセールスマンとチーフを乗
せて中国地方を走り回ることでした。出張が多く、各
地の温泉地で手ごろな料金の旅館やホテルに宿泊。私
には、中国地方を観光がてら、見て回ることができ、
しかも、おいしい料理を口にできるので、良いところ
に就職できたと喜んだものです。その一年後のある日
の朝礼で、突然、 社長から私にドライバーからセー
ルスへの転向を言い渡されたのです。
この1年で一発販売のセールスマン達と行動を共にし、
仕事の厳しさを見てきているので、赤面恐怖症と口下
手の自分にはセールスの仕事なんてとんでもない、と
思っていたのですが、かと言って辞める訳にもいかず、
渋々セールスに転向したのですが、この時の経験がそ
の後の生き方を変えることになったのです。

当時、IC(集積回路)を使った卓上電子計算機が開
発されて間もなくの頃でしたから、電卓の草創期の時
代で一般にはまだ知られていません。この20数万円の
電卓を10台くらい積み込み、各5人編成のチームが中
国地方圏内の都市から山間僻地までを廻って売り歩く
一発販売のセールスですから、並大抵のことではあり
ません。
一発販売のセールスとは、それぞれの地点で一人づつ
電卓を持たせて降ろし、これはと思う工場や商店など
に飛び込んでデモをやり、僅か3,40分のうちに20数万
円の電卓を売り込むのです。中には興味を示す経営者
もいますが、ほとんどが「うちには算盤の一級がいる
ので、そっちの方が確かダ。高い金を出してまで買う
気はない」とか、「何、24万円? そんなものに金を
出すぐらいなら、事務員が一人雇え、しかもお釣りが
くら~」と断られるのが大半です。そんな中、何軒も
飛び込んでデモをしているうち、20分ぐらいの説明で
「これは便利だ。計算の苦手の社員にも仕えるゾ」と
一発で購入してもらえる経営者に出会うこともあるの
です。ひっきりなしに飛び込みを繰り返し、その度に
一人でデモをするのですから相当しんどい仕事ですが、
苦労の甲斐あって売れた時の喜びは格別で、一変に元
気が甦ります。
さて、セールスマン朝、会社を出発するときは、社長
や幹部の前に各チームが一列に並び、大きな声で、行
き先と販売目標を言って出発するのですが、いくら気
合を入れて頑張ってもパーコロ(一台も売れないこと)
の時もしばしば。そんな時は気持ちが重く、車が市内
に入って会社に近づくにつれ、皆、押し黙ってしまい
ます。それは一台も売れなかったチームにはきつい叱
責が待っているからで、まぁ、販売会社であれば全て
がセールスマンや営業マンの成績にかかっているので
すから叱責や説教は当然のことだと言えます。で、帰
社するなり社長の前に並び、「大きな金玉ぶら下げて
何やってんだ。お前たちは霞を食って生きているのか。
明日から一台も売れないときは帰ってくるな!」と、
いつもの社長の怒声。皆、神妙な面持ちで小さくなり、
下を向いて社長の小言が終わるまで耐えていますが、
翌日にはケロッとして出社。歩合制なので仕事に入れ
ば真剣ですが、遊ぶときは徹底しています。出張組を
除いて、朝礼を受けた後、三々五々違う方向に向けて
出発しますが、まず行くところはいつもの喫茶店。各
チームが次々に集まってきます。ここでモーニングを
食べながら11時頃まで、苦労話や、自慢話をひとくさ
りダべって仕事先に向かうのです。
ところで成績の良いチームの場合は、チーフの一声で
喫茶店からボーリング場や雀荘に直行し、思い切り羽
根を伸ばします。勿論、社長の叱責は覚悟の上ですが、
日頃から成績が良いチームの場合は、帰社して「皆、
頑張ったのですがパーコロでした」と報告しても叱責
は短く、すぐ解散できます。帰社後、真っ先に目をや
るのはやはり他のチームの成績グラフ。大きなボード
に赤いマジックの棒グラフですが、セールスマンにも
3タイプあり、腕のいいセールスマンは毎月目標を達
成し、毎回金一封の得意顔。次に良くも悪くもなくマ
イペースなタイプ。可哀相なのが、頑張っているのに
一向に成績が上がらず、スランプが長いタイプです。
販売会社のほとんどは、基本給は僅かでほとんどを歩
合で稼ぐ訳ですが、それでも成績が芳しくないと社長
から扶養者呼ばわりされて肩身の狭い思い。まさに、
数字が全ての販売会社には人それぞれ悲喜交々の人生
模様があります。              続く


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